一石を投じる

選択と集中という言葉が苦手だ。

多分正しいのかもしれないし、その方が形になりやすいのだろう。しかし、あれもこれもやりたい、試してみたいという自分がいるのに、そのうち一つを選んでその他を切り捨てて集中しないといけないというのは、自分自身より成果の方を大切にしている気がする。

不器用でもわかりやすく形になっていなくても、自分の心のままに生きている人が好きだ。何でそれやってるのと言われも、今取り組んでいることとの直線的なつながりが見えづらくても、いつか繋がればいいな、繋がらなくてもやってて楽しかったなと思いながら一石を投じ続ける人になりたい。

浪費の月の浪費の日

今日は、個性心理学で言うと、僕は浪費の月の浪費の日である。体も心も疲れやすい1日になるだろう。あまり無理をせず、人に当たりすぎず、敏感になりすぎすやり過ごしたい。

 

今日は、どんな1日になるだろうか。最近は、いい日もあれば悪い日もあるし、半々くらいの気持ちで頑張っている。

 

昨日の夜の内容が忘れられず、人を疑う気持ちにもなるし、きっとそういうこともあるのだろうと思うけど、それの解決は今日はしないほうがいいし、いずれなんとかなるのかもしれない。

 

相手のほうがあまり気が乗っていないので、一線を越えることはないだろうが、接触回数がこれから増えるだろうか、何が起こるかわからない。僕は祈るしかない。

書くというメディテーション

今は、電車の中である。今日は、インターン先のトップ二人に辞めるということを直接口で伝えた。前に、スラック上で伝えてあり、正直何を伝えたらいいのかわからないままでの会の設定であったが、最終的には自分が何で引っかかっているのかを気づいた気がする。


ひとまず、はじめは多忙なメンバーの時間を取りながら、うまいこと言えない自分が苦しかった。

そして、なぜ何も伝えられないのだろうかと考えたときに、このままで終わりたくないし、自分が何を伝えても、心の中で否定されているのではないかという声を聞いてしまっていた。


色々なことが不安である。インターンで自分のやることも特にないのに、出社している今の現状もめっちゃ微妙である。やることは一つ残っているが身が入らない。ただ、やると言った事実だけ残っている。


僕はインターン先で、特集ページを作っていた。もともとサイトパワーのあるところだが、ユーザーが求めるような切り口で案件をまとめ、それに情報という付加価値をつけるというのがミッションであった。


しかし、どこまでそのミッションを果たせたのだろうか。色々な部署と関わる機会があった。色々なことを宣言して、何一つ完結できずに終わった気がする。


できたことといえば、関わっているプロジェクトへのインプットと、特集の作成に関して、色々な人と関わることでそこのコミュニケーションを少し促進したくらいだと思う。


ビションナリーファシリテーターを目指していた。事業を運営することを学びたかった。組織開発に関わりたかった。多くな人を期待させて沢山の時間を投資してもらって、その上で研究が忙しくなったから辞めるというのはなんて無責任なんだろうと思う。


ただそうでもしないと自分の心が壊れてしまうと思ったし、今でも半分壊れかけているようなものだと思う。もしくは、自律神経が乱れているのかも。


時々、大きな怪我でもして途中リタイアをしたいと思う。今背負っているものを強制的に放り出したい。自分の責任を感じずに外部の力で終わりたい。


誰にも相談できないから、文章にすることにした。たまに、このまま終わりにしたらどうなるだろうかと思うが、まぁ、それはきっと選ばないことを願う。


来年は休学でもしようか。それとも、学期が始まったら意外と大丈夫だと思えるのだろうか。今は、読むべきと言われている文献も読めていない。インターン先でもうまく回ってある気がしない。笑顔を作れない。彼女との関係性も微妙である。奨学金の借金を背負うことになる。このまま終わってスキルはない。何が自分にできることなのだろうか。


世界平和を願っていた。誰も取り残されない世界を作りたいと思っていた。環境のせいで生きることに不自由を感じる人のそばに立ちたいと思っていた。世界の協力関係をもっと促進したいと思っていた。あったかい世界を作りたかった。システム・ファシリテーションを作って、みんながつながる世界を作りたかった。


これらの夢や理想が自分を苦しめている。何も近づいていない。むしろ遠くなっている。ダメで、クズで、依存的で、夢を見せれなくて、人を傷つけるそんな自分が嫌だ。


誰のためにも生きられてない。自分のためにも生きていない。何のために生きているのか。電車に乗ると、部屋に一人でいると苦しくなる。心臓が苦しい。自律神経が乱れているのだろう。集中力が乏しい。頑張りたくない。

書くというメディテーション

今は、電車の中である。今日は、インターン先のトップ二人に辞めるということを直接口で伝えた。前に、スラック上で伝えてあり、正直何を伝えたらいいのかわからないままでの会の設定であったが、最終的には自分が何で引っかかっているのかを気づいた気がする。


ひとまず、はじめは多忙なメンバーの時間を取りながら、うまいこと言えない自分が苦しかった。

そして、なぜ何も伝えられないのだろうかと考えたときに、このままで終わりたくないし、自分が何を伝えても、心の中で否定されているのではないかという声を聞いてしまっていた。


色々なことが不安である。インターンで自分のやることも特にないのに、出社している今の現状もめっちゃ微妙である。やることは一つ残っているが身が入らない。ただ、やると言った事実だけ残っている。


僕はインターン先で、特集ページを作っていた。もともとサイトパワーのあるところだが、ユーザーが求めるような切り口で案件をまとめ、それに情報という付加価値をつけるというのがミッションであった。


しかし、どこまでそのミッションを果たせたのだろうか。色々な部署と関わる機会があった。色々なことを宣言して、何一つ完結できずに終わった気がする。


できたことといえば、関わっているプロジェクトへのインプットと、特集の作成に関して、色々な人と関わることでそこのコミュニケーションを少し促進したくらいだと思う。


ビションナリーファシリテーターを目指していた。事業を運営することを学びたかった。組織開発に関わりたかった。多くな人を期待させて沢山の時間を投資してもらって、その上で研究が忙しくなったから辞めるというのはなんて無責任なんだろうと思う。


ただそうでもしないと自分の心が壊れてしまうと思ったし、今でも半分壊れかけているようなものだと思う。もしくは、自律神経が乱れているのかも。


時々、大きな怪我でもして途中リタイアをしたいと思う。今背負っているものを強制的に放り出したい。自分の責任を感じずに外部の力で終わりたい。


誰にも相談できないから、文章にすることにした。たまに、このまま終わりにしたらどうなるだろうかと思うが、まぁ、それはきっと選ばないことを願う。


来年は休学でもしようか。それとも、学期が始まったら意外と大丈夫だと思えるのだろうか。今は、読むべきと言われている文献も読めていない。インターン先でもうまく回ってある気がしない。笑顔を作れない。彼女との関係性も微妙である。奨学金の借金を背負うことになる。このまま終わってスキルはない。何が自分にできることなのだろうか。


世界平和を願っていた。誰も取り残されない世界を作りたいと思っていた。環境のせいで生きることに不自由を感じる人のそばに立ちたいと思っていた。世界の協力関係をもっと促進したいと思っていた。あったかい世界を作りたかった。システム・ファシリテーションを作って、みんながつながる世界を作りたかった。


これらの夢や理想が自分を苦しめている。何も近づいていない。むしろ遠くなっている。ダメで、クズで、依存的で、夢を見せれなくて、人を傷つけるそんな自分が嫌だ。


誰のためにも生きられてない。自分のためにも生きていない。何のために生きているのか。電車に乗ると、部屋に一人でいると苦しくなる。心臓が苦しい。自律神経が乱れているのだろう。集中力が乏しい。頑張りたくない。

センスオブワンダーって今どうなん自分?

今、正直鬱っぽい感じがする。大学院での生活も8ヶ月くらい過ぎた。今の自分は、昔の自分に比べて成長しているところはあるだろうか。この期間にやったことは、SDGsに関する論文を読むことと、インターンマーケティング業務をしていたことである。

大学院での学業や研究が全然上手くいっておらず、英語を使う講義がほとんどなのでそこで話せない自分はほとんど存在意義がないのではないかと感じている。自分の研究に関しても、全然進んでおらず、それが自分が逃避する理由にもなり、また研究に集中することができないというループに入っている。

 

この8ヶ月で学んだことといえば、無理することであり、それをお酒を飲んだり、友達と遊んだり、お笑いを見たりという、発散する手段で解消するという感じである。無理をしすぎた結果、精神が疲弊し、それに関する回復の手段もだんだん追いつかなくなっている。インターンは12月まで続けると言ったが、正直、明日のインターンもいきたいくない思っているし、学校にも行きたくない。友達の活躍を見ると自分は何もできていないという虚無感に落ちいる。

 

仮に大学院を辞めて、沖縄に帰ったとしよう。自分は何ができるだろうか。これまでやっていたファシリテーションで仕事をするのは正直気が乗らない。黙々と自分のペースでできる仕事をしたい。

 

巷には、無理をしない生き方のすすめが多く流れている。しかし、それを読んで誰が無理をしない生き方を素直に選ぶことができるのだろうか?無理をすることがしか、今のポジションを保てない人は、無理をしないことでより不安定な場に移るのではないかという怖さから無理をし続けてしまい、最終的に壊れてしまうのだと思う。

 

なぜ人は無理をしてしまうのだろうか。自分の場合を考えてみる。

 

1それでしか存在意義を感じられないから

自分の周りの人間関係は、切磋琢磨や仲間、世界を変えるという言葉が溢れている。その仲間たちと一緒に活動するには、自分は常に前進し続けないといけないと思っている。それをしない限り、自分がこれまでなりたくないと思い続けてきた、自分の意思を持って生きていない人たちの生き方に自分がなってしまい、自分のこれまで積み上げてきたものは何も意味がないと思ってしまう。また、この今の自分になるまでに色々なものを犠牲にしてきて、断ち切ってきた人間関係も色々ある。そんな自分がここで立ち止まって、壊れてしまえば、自分の決断は間違っていたのではないかと思ってしまう。

 

2休憩の取り方がわからなくなってきた

今は、自分の限界がきているのも感じている。だからこそ、意図的にアマゾンプライムを見たり、漫画を見たり、好きなことをすることで自分のリフレッシュを兼ねているが、それにもあまり効果がなくなってきた。常に不安が自分の心をつきまとっている。明日のことを考えると不安だし、目を覚ましてやらないといけなくとを思うと憂鬱である。やりたくないことがある。研究は正直やりたくない。好きな本を読んで好きな人とのんびり過ごして、自然に触れて、美味しいご飯を食べて、また好きな本を読んで、たまに仕事して、人に感謝される生活がしたい。

イメージは、すぐに海に出かけることができ、その海の近くにあるカフェで、友人や家族、仲間が集まって、そこで本を読んだり、プロジェクトの話をしたり、一緒に団欒している風景である。僕は、そこで適当に話に入って、できることがあれば仕事を一緒にしたい。でも、違う時には自由に抜けれるような関係性でありたいから、お金はもらわないでやれないだろうか。自然、人、自由、感謝がキーワードである。お酒を飲みながらワイワイするのもいい。

都心へのアクセスが良く、かつローケーションが最高な場所で、自分のカフェを持って、経営は別の人に任せて、オーナーをやりながらヘビーユーザーとしてそこに良く滞在し、自分の仲間が良く過ごす憩いの場にしたい。

 

ちょっと、無理をする理由からずれてきたので、そのまま別の話をする。

自分は何をしたいのだろうか?

自分の芸術的なセンスを表現できる環境で仕事をしたい。正直、美的センスや言語センスには自信がある方である。また、物事の法則性や外観をつかむセンスも高い気がしている。

それらを生かしながら自分の世界観を現実に表現するというのが僕がしたいことである。

僕は、そのために、プログラミングを学んでみてはどうかと思っている。これは、一度プローゲートで学んでみたが、実際学んでみたというレベル感で終わってしまい、大したものは作り出せていない。というか全く作る段階にはいっていない。しかし、自分がプログラミングをある程度学び、その世界で作りたいものを作れるスキルがつくとしたら、それはものすごく最高なことではないだろうか。

他にも、何かしらのスキルや特技を身につけていきたい。将棋をやっているのはどうだろうか。身の回りには、多趣味な友達が多くいる。しかし、僕はどちらかというと、特技がなく、何ができるかといえば何もできないのではないかと思う部分もある。

 

ブロガーになって見るのはどうだろうか。できれば人に雇われる以外の手段でお金を稼ぎたい。ECの販売をするのもいいかもしれない。ただ、ECに関しては、あまり自分の乗り気はしていない。

 

結論:

プログラミングをやる

やりたいことリスト

やりたいことリストを書いてみようと思う。完全に自己満であり運良く(運悪く?)きていただいた方には申し訳ないが、何かを提供できるとしたら、やりたいことをリストを書くことによる自分の内面の変化をお届けできればと思う。

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考えるより動けの弊害

よく身の回りやネットで耳にする「考えている暇があったら動けよ」という言葉がある。この言葉は多くの正しさを含んでいる。しかし、この言葉が人にもたらす影響を考えた時に一種の呪いになるのではないかと感じている。

 

事実、私自身のこの言葉に長い間苦しめられてきたし、今でもそのような呪いに近い思考にとらわれることがある。この言葉をやたらに使う人に対する抵抗感は何か。文章にしてその抵抗感を整理したいと思う。

 

この言葉が人に与える影響は主に二つではないだろうか。

 

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