呼吸するということ

 

呼吸するように、〜するという表現がある。

例えば、呼吸するように嘘をつくとか、、

 

僕は、呼吸するようにブログを書いていく友達を知っている。

僕のブログは、どちらかというと感覚的には勉強に近いのだろう。

僕にとって文章を書くということは、頭の中にあるものを引き出し、まとめ、見栄えの良いものに編集するという手間のかかるものという印象を含んでいる。

 

だから今回は、その手間のかかる編集作業だったりを一切なくして、徒然なるままに頭に浮かんだことを書いてみた。なるほど、何の意味のない文章が広がっているような気がする。というか、広がってすらいない気もする。

 

話は変わるが、最近は何かと内省をしているフリが多い気がする。そして、僕のことを気に入ってくれる人、気に入らない人、離れていく人が顕著になってきた気がする。あくまでも気がするという範囲だが、この理由を考えたときに、僕自身が他の人にとってわかりやすく変容したというのがあるのだろう。

 

混沌とした、わかりにくく、だからこそ気に入りにくい、また嫌いになりにくい、という印象から、なるほどね、あなたはそういう人なのね、なら好きだよ、もしくは、ゴメンだけど嫌いだなっていう印象の変化があったのだろう。

 

僕はとても気分屋だ、そしてこのブログもまた気分屋である。誰のためでもないブログ、僕のためでも、あなたのためでもないブログ。それがこのブログの存在意義であり、存在無意義なところだろうなと一人言葉遊びをしてみる。

 

話を戻してみる。呼吸という話だった。普段呼吸するようにしていることを列挙してみる。歯磨き、ご飯を食べる、テレビ見る、SNSを巡回する、新しい情報を集める、人の分析をする、思考する、何かを読む、そして寝る。呼吸というのは、無意識的な活動なので、今列挙した呼吸するようにしているつもりのものから何個か消去しないといけないだろう。それもめんどくさいので、残しておくが、逆に意識的にしているものはなんだろう?つまり、先ほどの対比で言えば勉強するつもりでしていること、それは、新しいコミュニティーに属すること、成果を出すこと、本を読むこと、健康に気を使うこと、本屋に行くこと、そしてブログを書くこと。これらの共通点は、少々心理的コストがかかるということだ。そして、自己分析を重ねた結果、僕はすごく面倒くさがりだ。

この心理的コストがバカにならない。このコストが少しでも高ければ全くやりたくなくなるのだ。

 

その時の解決策はすごく簡単だ、それをできなかった時の面倒くささやどうにもならなさを回避したいという欲求を使うのだ。もう一つは、できた時の達成感を扱うというものだが、いまひとつ活用できていない。

 

自分の考えを形に残してみる。自分の頭と指の連動がうまくいっていないのがわかった。これは、ただの独り言というレベルだが、いつか見返したときに変化が感じられたらいい。つまり書きたいことだけを書くということは、その時々の僕を正確に映し出しているかもしれない。もっとたくさんの検証データが欲しいから適当に書くことにしよう。

思考というのは、このようになんとなくの流れでいっぱいなのかもしれない。明日見返してみても脈絡のない言葉を並べているということがわかるだろう。

だが、僕の中では、ある一定のリズムの元にこの記事が成り立っていることはわかっている。例えば、未来に今を残すために書いている。やこういうスタイルの記事があってもいいのではないかという反骨心、そして主題の呼吸するように記事を書くというテーマで書いてみるということ。ほらつじつまがあった。

 

まぁ、たまにはこういうのも悪くないし、いつ書いて悪くないのだろう。ときに、この文章スタイルは西尾維新的だなと感じ、彼が僕の話し方にすごく影響を与えていることがわかった。

 

まぁここらで終わりといたしましょうか。

ではでは。