徒然なるままに 〜学びの落とし込み〜

 

 ブログのいいところは、その日に学んだことを文字に落とし込めるところだ。逆にブログを書くために毎日学ぶという好循環も生まれるのだろう。まだその段階に自分がいるかはわからないが、そのようなことが書かれた本を読んだ。

 

今日は、朝7時半から始まり、9時から話し合い、12時解散し、12時半から3時半まで漫画喫茶で漫画を読み、4時半からバイトの用事があり、5時半くらいからNLPコーチングの本を読み8時に夕食を食べ、色々ダラダラしているうちに今に至る。昨日と今日の満足度を比べた時、今日の方が学んだことが多いような気がする。そして、あるプロジェクトの運営について話し合うことができたので、半歩昨日より進んだ気がする。また、旧友を温め直し始めて、それが一つずつ繋がってきている。これは、良い変化ではないだろうか。

 

いつの間にか何かかが進み始めている気がする。きっかけは、韓国に3泊4日で旅行したことかもしれない。色々な新しい情報と、何時間にもわたる対話を通して、自分自身を改めて知ることができ、またやりたいことが以外とシンプルなところにあるのだということに気がついた。そしてやってみる心理的コストも低かったのでやっているうちに、引き下がれなくなったというのもあるのだろう。

 

まぁ、とりあえず色んな人と会ってみて対話を重ねていこうと思う。対話の中で相手に考えをより明るくあったかい方向に引き上げることができたら嬉しいなと思う。

 

今日学んだことは、いくつかある。

まず、NLPの本で学んだことは、①思考は言葉で作られている ②脳内では情報を湾曲し省略する ③脳内は知らないことを自分の経験で補う ④動詞の名詞化が思考を凝り固める ⑤トランスモードに入れることで心に響く

 

このようなことだったと思う。人は思考するときに言葉を使って思考しているということは知っていたし、自分の中でも理解はできていた。だからこそ、自分の言葉に気をつけていたし、何か行き詰まった時は、脳内の言葉をもっとわかりやすくしてみたり他の視点から眺めてみたりした。そして、当たり前ながら忘れていたこととして、言葉の意味は理解しても相手が考えていることは、相手のこれまでの人生と経験の中の話なので、完全に理解することはできないということである。また自分の発言も自分の世界観の中の言葉であるということを忘れてはならない。誤解の元だし、独りよがりの発言になりかねない。動詞の名詞化は新しい考えであった。自分も言葉を綺麗にまとめようとするあまり、動かしきれない表現をいくつも脳の中に抱えている。例えば、「人類」「人間」「相手」「共感」「幸せ」などである。これらは、僕の大切な言葉たちであるが、硬い嚙み砕きにくい表現である。これを少し簡単にとして「Aさん」「周りの大切な人たち」「感情レベルで言っていることに対して理解することができる」「生きていて良かったという感覚」などもう少しチャンクを落として理解することも大事である。

一番面白かったのは、トランスモードの記述である。あえて、曖昧な相手の思考が入り込む質問をすることで、相手にその質問に集中してもらい、その上でリーディングなどより好転的な言葉をかけていく。ということである。これは、自分がやってきたことであると感じた。まずは、関係性を気づき、向き合っている人のことを承認し、受け入れ、そして、相手の思考が入り込む質問をしてその質問に集中してもらう。そこから少しだけ、よりエネルギーの湧きやすい方向に相手の目を向けてもらうということである。まだ、消化不良ではあるが、ちょっとずつ理解していきたい。トランスモードか、思考モードかを理解して質問を変えていきたい。

 

二冊目は、コーチングの本であった。特に面白かったのは、傾聴の部分である。

傾聴には3段階あって、①内面的傾聴②集中的傾聴③全体的傾聴である。

①内面的傾聴とは、自分の頭で判断している状態である。相手の言葉、自分の経験上で判断している。これでは相手は聞いてもらえているという実感がわかない②これは、相手の言葉を受け止め、その瞬間瞬間で言葉を紡ぎ出しているということである。相手に集中し、頭の中で言葉を用意しているわけではないので、相手はちゃんと話を聞いてもらえたという感覚を持つことができる。③これは、ソフトモード傾聴である。少し相手から引いた状態で傾聴することである。場全体を見て感じて傾聴している状態で、相手の表情以外に、体全体が見れるので、全身から発する情報を得ることができる。また、場の空気も感じれるので、その場でぽっと思いがけないような発言が出たりする場合もある。これは、お互いに共鳴しあっての思考と発言になるのではないかと思う。

 

これらが、今日僕が学んだことである。

コーチングとはすごい奥が深いし、自分の今までの振る舞いを振り返りより高めに行けるいい機会であった。機は熟したのかと密かに思っている。

 

あるがまま、なされるがまま、それが大いなる力の導きである。それが口から言葉となって出てくるのである。その感覚は、自分以外の大いなるものとつながったような感覚であり、その場に不思議な力溢れている。全体が一つになり、思考も溶け合い、感情だけがすごく揺さぶられる。それがU理論的プレゼンスなのかもしれないし、仏教的悟りの感覚なのかもしれない。ただ言えるのは、意図的にそのような大いなる力に身をまかせることができれば、すべての物事はあるがまま、なされるがままにあるべきところに落ち着くだろう。

 

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