自分の認めたくない思いと向き合ってみる。『年末企画』

 

年末なので、自分の内側を観察してみている。

最近ブログを更新できなかったのは、忙しかったというのもあるが、自分自身が今何を土台に立っているのか少しわからなくなっていたからだ。

 

そのきっかけは、ある友人からかけられた『お前の言っていることは、表面的で純度が低いよね。それに、命燃やせるのか?』という質問だった。自分の考えていたプランもどこかとってつけたようなものだと言われ、僕自身そのことに関して反論ができなかった。それは、その友達が覚悟を決めてやり切るというのを信条としていて、実際にやっている人物であるというのもあるのだが、それ以上にちっぽけな自分をその質問によって発見してしまったからである。

 

そこで、その時僕の内面でどのようなプロセスがあったのかを考えてみた。

一つ目に、自己防衛である。自分の考えを守りたい。とは言っても今更方向は変えられないよ。という気持ちである。二つ目に自分のことを価値の低い人間だと思われたかもしれないという恐れである。これは、この友人を尊敬しているからこそ、その人に認められないということを自分自身が許せなかったのである。第三に、自分は意味のない選択をしているかもしれないという恐怖である。

 

これらが、僕の心の中に湧き上がってきた。僕は、人に何か評価された時、軽く見られた時、自分の心の中が色々な感情で燃え上り、どうしようもない状況になることを知っている。その時の僕の反応は、相手に自分を良く見せようとしたり、相手に取り入ろうとしたり、または相手を否定することで自分を守ろうとする。これは、僕の小学校と中学校の時の経験が根底にあるのだと思う。自分のことを低く見られた時に、人は相手に敬意を示さなくなり、とても残酷なことをするという考えが潜在意識にあるのだ。逆に言えば、自分もそのような考えを持っているということである。

 

僕は、今回それに気づくことができたので、この固定観念を手放そうと思う。そのためには、自分の過去を振り返り、その出来事に他の意味づけをする必要がある。そして、どうしたら相手を評価しないで接することができるか考えなければならない。僕は、相手を評価することで自分を守ってきた。先に評価してしまえば、その相手から評価されたとしても自分の考えの中で処理することができる。これは、言ってしまえば、自分が無反応になることにもつながるのだろう。自分のこのような弱い部分を見つめるのは相当に勇気のいることだが、その分、価値のあることだろう。今文字を打ち込んでいる間も胸が少し苦しい。これは自分にしっかり向き合っているという証拠なのだろう。

 

では、過去に対して想いをめぐらそう。自分の中で受け止めきれずに解決を先延ばしした思いはなんだろうか。それは、小学校の友達にいじられ存在を雑に扱われ、辛く寂しい想いをした僕の心である。その時の気持ちは、本当に寂しく、辛く、悲しかった。そうして、そんなことをする相手を思いやりがなく、残忍で、馬鹿な人たちだと評価した。しかし、他に友達もいない僕は、そんな気持ちになりながらも、その人たちと遊ぶことを続けた。もちろんいつもないがしろにされたのではなく、楽しいひと時も多かったのだが、自分の心が辛い経験に無感動になるのを感じた。次第に、否定的になり、冷たくなり、笑顔が少なくなってきた。そうすることで自分を守ったのだった。

 

そのような幼い僕に今の僕はどんな言葉をかけることができるのだろうか。きっと、現実は自分が感じたようになる。自分が思ったことが現実となるということだろう。そのようなことをされた時に、遊び心でその場を楽しむことができたなら僕の心は傷つくことなく、むしろ軽やかに動き回っていただろう。

 

では、遊びごころを持つとはどういうことか。この物事は一生続くわけでもなく、そのような行動をとる友人に対しても揺るがない自分でいるということはチャレンジングだし、エキサイティングなことだ。もし、ここの関係性がなくなっても他に友はたくさんいるし、これからでも作ることは可能である。しかし、ちょっと立ち止まって見て、この問題に取り組んでみようではないか。きっと自分の想像していたよりも面白いことが起こるかもしれない。そう思えたら、その時の問題は解決していたかもしれないし、他に気の置けない友人ができたかもしれない。

 

他に自分が否定的な感情に支配される時の背景として、中学校の時の部活の出来事がある。僕は、あるバスケ部の同級生と喧嘩をしていて、その結果その友人によって、部活の空間が居心地の悪いものになってしまった。その同級生の命令で、後輩からは軽く見られ、侮辱的な言葉をかけられ、自分の尊厳を傷つけられてしまった。この物事の発端は、僕とその同級生が、お互いの触れられたくない思いを傷つけあい、修復が難しいレベルにまでヒビが入ってしまったというのがある。その体験を通して僕が得た価値観は、権力を振りかざす者への嫌悪感である。自分の身を傷つけられるかもしれない。尊厳が傷つけられるかもしれない。後輩たちに舐められるかもしれない。

これらが、僕を支配していた否定的な感情である。

この物事に対して、別の方向性を見つけ出そう。

まず、最初の決裂段階でお互いに否定しあうのではなく、誠心誠意謝り、和解を選べたかもしれない。自分の自尊心を傷つけられて嫌な気持ちになるなら相手の自尊心を尊重することの大切さを思い出し、そこに焦点を当てる方が生産性が良かったかもしれない。後輩たちに舐められるのは、同級生や先輩からそのような態度を取られるよりも辛かったが、後輩たちを自分の意のままにしようとした心理がその態度を肯定できなかったのかもしれない。たとえそのような態度をとられても、自分の芯を持ち、自分の気持ちを大切にすることができたなら、その場を立ち去るという決断や部活に打ち込むという決断を取れたかもしれない。不毛な争いに身を削るのではなく今できる最善に集中することが解決策であったのだろう。

今ある最善に取り組むこと、これが問題が起きてしまった時に一番大事なことであり、これから何かを考える上で、自分の固定観念から解放されしっかりと未来を見る上で必要なことなのだろう。感情を抑圧するのではなく、自分に思いやりを持ちながら、頭を働かせ今できることに集中する。これが自分自身が否定的な感情に包まれた時の解決策である。

何かがすっと溶けるような感覚になったが、これらの意味はきっと年が明けてからわかるのだろう。僕は、年上に否定された経験はあまりなく、むしろ称賛されることが多かった。後輩からも慕われることも多くなってきたが、昔のそういう思いから今の現実でも年下に対して警戒心を抱くことも多く、それらが過去の自分に繋がっていることに今日気づくことができた。

 

そして、これらのことと、友達の言われた『命燃やしている?』という発言をされた時の自分の反応を組み合わせると、過去の自分がその言葉に評価されたと感じ、慌てふためいた。そして、その言葉を否定する考えを色々引っ張り出してきた。しかし、僕にとって最善なのは、その言葉をどう有益に次につなげるかである。それも踏まえて、自分のビジョンを見つめ直す意味で活用し、また自分がひっかった想いが、小さなエゴの上に成り立っているのか、大志上に成り立っているのかを考える必要がある。小さなエゴの場合、少しずつ手放し、大志の場合は大切に肉付けしていこう。

 

これらが、僕が2016年に気づいたことで、手放したい想いである。

 

このことは2017年に自然と解決されているのかもしれない。最近祈りを始めたので、この課題を自分より大きな力とともに適応していこうと思う。

 

まこる