雑記

大学院には合格した。(ちなみに大学院は途中で志望を変更しています。)合格人数がすごく少ないので、名前は伏せます。
その瞬間はすごく嬉しく、達成感もあった。しかし、来年の4月に入学が決まったが、その間のこの空白の期間のようなものは自分に思考を強制させる。去年もそんな感じであり、ブログをよく書いていた気がする。もしかしたら、時期的なものが自分にはあるのかもしれない。

 

今の自分がやりたいことはなんだろうか。
論文を書くのは楽しいし、研究計画を作るのも楽しい。お世話になっている企業さんの次の展望を考えるのも楽しい。
何かを計画し、それが実行される過程を想像するのが楽しいが、その反面自分が動かないといけないと思うと面倒くさい。自分の時間が削られている感覚に耐えられないのだと思う。
自分のことを考える時間や、未来を想像する時間は好きだし、それを続けていきたいと思う。主体的でなく強制されることに耐えられない性格なんだと思う。しかし、集団で活動する場合、ある程度の調整が必要だし、そうやって頑張った結果が自分の達成感につながるのだと思う。
しかし、達成感の先に何があるのだろうか。人生において形があるものはほとんどなく、自分の主観や間主観的なものしかないとしたら人は何を自分の人生に残せるのだろうか。むしろ残せるものが何もないことが人生なのだろうか?
 
人生について考えると、いつも考えすぎてはいけない、目の前のことを進めようという気持ちになる。直感的に、そこには何も答えがなく、ただ暗闇があるだけで、自分に照らせるのは自分の半歩先でしかないということだろうか。
 
とりあえず今は、来年に向けての準備を行っている。卒論の修正と、研究計画書をあと二つ作るということ。そして、それに関する論文を提出してみるということ。それ以外には、それ以外には、大好きなファシリテーションに関する活動を続けていくということ。これは大学院の研究計画でもあるので、今の自分に足りないものを克服していきたい。彼女もできた。その上で満たされているはずの感情は、足りないものに目がいくし、手にしてしまったからこそ、いなくなる時のことを考えてしまう。自分にとって大事にしたい感情はなんだろうか。暖かい気持ちを常に持ち続けていたいが、自分本位にその気持ちの最大化を目指すとそのような状態から遠ざかってしまうというジレンマもある。抽象的なものを考えていると行き着くのは、人生の目的であり、何のために私は今の活動を続けているのかという問いにぶち当たる。そして、そのための答えがすぐ出てこないということは、何も背負っていないのかもしれないなと思ってしまう。
自分のために生きられないなら、人のために生きてみなよって自分で言ってブーメランしているのが今だ。
 
まぁ、季節的なものもあるし、今取り組むべきものを先延ばしにしているからこそ、その反動でもやもやするのだろう。とりあえず、研究計画書を書こう。そして、ファシリテーションの勉強を続けよう。その先に何かにぶつかるかもしれない。ぶつかるもの、ぶつからないものを考えて、もやもやする状態を楽しみつつ、克服していきたい。
 
まこる