考えるより動けの弊害

よく身の回りやネットで耳にする「考えている暇があったら動けよ」という言葉がある。この言葉は多くの正しさを含んでいる。しかし、この言葉が人にもたらす影響を考えた時に一種の呪いになるのではないかと感じている。

 

事実、私自身のこの言葉に長い間苦しめられてきたし、今でもそのような呪いに近い思考にとらわれることがある。この言葉をやたらに使う人に対する抵抗感は何か。文章にしてその抵抗感を整理したいと思う。

 

この言葉が人に与える影響は主に二つではないだろうか。

 

 

1. うじうじ悩んでいるよりは、行動した方が目の前のことが少しでも前進する。

「考えるより動け」の一番のメリットは、自分の頭の中の世界で、もやもやや悩んだりしているよりは、その解決に向けて何かしらのアプローチをした方がわからないことが明確になってくるということだ。私自身もこのことはものすごく納得しているし、例えば、相手の気持ちがわからなくてもやもやして悪い方向に考えている時は、直接聞いた方が早いし、意外と思い過ごしだったりする。また、ある種の恐れを抱えて動けない時は、実は自分は動きたいけど、心の中で怖さがあって動き出せていない時は、どんな結果になっても、動きたいという自分の感情を大切にするために、ある程度考えたら動くと決めて生きると自分の行動原理がシンプルになる。これらが、「考えるより動け」のシンプルな正しさだと思う。

 

では、この言葉の呪いの側面は何か。

 

2. 自分は動き出せないし、何を世の中に生み出していないちっぽけな存在である。

「考えるより動け」とは、誰かが自分に向かってメッセージを送っている場合がほとんどだと思う。インターネット上で、動き出せない人のための記事で、それを自分のこととして受け止めたり、友達や家族に相談してそんなこと考える前にやってみた方がいいんじゃないというメッセージをもらったりする。そんな時に、相手から受け取るメッセージを自分の動けなさを否定され、今の自分は何もできてない、頭でっかちな人間なんだと思うと、そこに「考えるより動け」の呪いの側面が浮かび上がってくる。このような言葉から受け取る自己否定の気持ちは、その人が物事を深く考えたり、自分の考えを人前で表現することを阻害する。そして、自分のやっていること以外言葉にしづらく、そして成果がない限り何も自分のことを表現してはいけないという感情にさせるのではないだろうか。例え、善意だとしても相手を否定する気持ちが裏側に隠れている限り、慎重に自分の考えを表現するか、もしくは一切言わずに相手の今の状況を受け止める方がいいだろう。

 

このようなことを考えた背景として、世の中の研究者批判に一石を投じたかったというのがある。また、国際協力やビジネスの世界で多く見られるアイデアに価値はないという言葉に対して、本当にそうなのかと疑問に思ったからである。

研究者は、今の現実を変えるためにももちろん考えることを通して行動をしているが、その視点は30年後以上先の未来に向けられている。例えるなら、30年前の研究者の考えが今の現実に当てはまり始めた時に、それを具体的な行動として具現化できる人が現れ、そのような役割分担の元、研究者のアイデアが現実に即して変化しながら表現される。もし、研究者の力点を未来ではなく今にだけ、今の現実を変えるためにその考えを具現化していきなよ。という言葉を投げかけるとしたら、それは単純な今の延長線上の元の課題解決の思考しかもたらさず、未来をもとに今を構築していくという未来志向の考えをすることが難しくなるのではないか。なので、役割分担として「考える人」、「動く人」を分けてシンプルに役割分担した方が全体を前進されるための策が生まれやすく、行動に移されやすいと考える。

イデアに価値がないという言葉も、同様にアイデアを生み出す人に居心地の悪さを与え、考えを発信し、そのことによって誰かのインスピレーションを引き出すということを減退されるのではないかと考える。もっと自由に行動を目的としてない夢見がちなアイデアでされ未来においては実現される可能性があるのだから、そこは暖かく受け入れ会える方がいいのではないかと考える。

 

以上が私の「考えるより動け」に対する考えである。私は、粗雑な考えでされも、短絡的な行動でさえも、一番大事にされるべきはその人がどう意味をその考えと行動に持っているかであると思う。そのような、その人にとってどうなのか?という「for you 」の視点が広がる世界を夢見ている。

 

まこる